死について

死ぬということは絶対に許せないことである。

 私は「死」について何度か考えたことがある。大きすぎる壁に当たった時、いじめやSNSなどによる誹謗中傷、様々な理由があるが今回は「なぜ、自分は生きているのか」ということに触れていこうと思う。

「死」について考えたのは高校野球を引退した後である。野球をすることが生きがいで野球をするために毎日があった。しかし引退をし、野球をする日々がなくなってしまった。それから生きていて全く楽しくなかった。その時、なんで私は生きているのだろう。と思ってしまった。それからは地獄の日々だった。相談も出来ずにいて、日々暗い毎日を送っていた。人と関わるのも嫌になった。それでも学校では顔だけには出さないように頑張ろうと思い、過ごしていたが少数の人からは「何かあったの?」などと言われてしまいどんどん嫌になっていった。

人と関わるのも嫌になりSNSもやめた。しかしそんなある日私の考えはコロッと変わった。

私の他にも「死」について考えている女子がいた。彼女は私に相談乗って欲しいと言われ私自身の悩みがありながらも相談に乗った。話を聞くと私の何倍も悩みが深く私はとにかくプラスの言葉をかける他なかった。その後も何度か相談を乗るうちに私自身の悩みがちっぽけなものだと感じた。私は「死」という悩みを「死」を考えている人の相談に乗ることで私自身の悩みが解決できた。本当に稀なケースで「死」という悩みを解決できたが、私は「死」を放っておけない。私は「死」についてひとつ心に刺さった言葉がある。「亡くなった後にかけられた言葉は本当は亡くなる前にかけてあげるべき言葉なのでは無いのか」という言葉だ。私はなんとしてでも友人の「死」を見たくない。守りたい。助けてあげたい。私にできることは本当に限られているが助けれる人は助けたいと思う。